私の名前には「信」という漢字が入っていますが、私は「信じる」という言葉を信じていません。
中学生を相手にしていると遅刻や欠席、宿題をやってこなかったことについて彼らの言い訳を聞く機会が頻繁にあります。
言い訳をするから悪い生徒だ、なんてことは全くありません。
この世に生まれてまだ14,5年の子達ですので、まだまだ自分から見える世界のことで精一杯で、他者からはどう見えるかまではなかなか考えが及ばないのは当然です。
ここではその言い訳に対してどう応じるのかという話をしたいのですが、最初の内はまだしも3,4回になってくると、私は人格否定にならないよう気をつけながら、でもずばっと言ってしまいます。
「もう理由はどうでもいい」と。
その理由が本当なのか嘘なのかこちらからは判断もできないし、大事なのはそうやって言い訳をしないで済むよう努力することなのだから、それができなかった時点でアウトだと。
そうしたことを言いながら、つくづく「信じる」という言葉は信用できないなぁと思っているのです。
たとえばAさんが「Bを信じているからね」と実際にBさんに声をかけたとして、この言葉には容易に「信じている」以上のものを感じてしまいます。
期待しているんだから裏切るようなことはしないでね、とかの押しつけがましさというか。
だから私は生徒にはこうした言葉でオブラートに包まず、なるべく率直に伝えるようにしています。
そんなことを考えていたら
芦田愛菜大先生
の数年前の名言を見つけました。
曰く、「裏切られたというのは別にその人が裏切ったわけではなくて、見えなかった部分が見えただけ。そうした時にそれもその人なんだと受け止めることができる、それが信じるということなんじゃないかなと思いました」
もう、年齢は関係なく、大先生だと思います。
「信じる」という言葉は相手に影響を及ぼそうとして使ってしまいがちですが、そうではなく、このように何かがあった時に自分を試す言葉として真価を発揮するのだと芦田先生から教わりました。
これは講師生徒間でもそうですが、親子間でも気をつけるべきことかなと考えます。
