今朝の井上尚弥は心臓が何回も止まるかと思った…。
挑戦者めっちゃ強いやん、なにあれ。
ともあれ、井上選手といえばその「意識の高さ」が色々なところで評価されているように思う。
大谷翔平しかりイチローしかり、一流、いや超一流と呼ばれる人ほど普段から意識高く生活していると。
だから俺達も意識高く持とうぜ‼
なんて話をしたい訳では1mmもなく。
どうしたってそんな話を聞いて
「どうせ俺の人生なんてくだらねーよ」
って思う層って一定数いるよね。
私もけっこうそっち派。
自己肯定感なんて昔から持ちようがなく。
今だって「そんな事で⁉」って思われるようなことで内面では自信なくしてふて腐れてるし。
さすがにおじさんになったので昔よりはだいぶマシですが、40目前でこれならもう死ぬまで変わらないのが見えてきて落ち込むこともまま。
だけれども。
教育業界で子どもと接していると度々感じるのが
自分にとっての「当たり前」が響く子がいる
ということ。
専門学校に勤務していた際、勉強が苦手なある生徒が休み時間に何でもない様子で
「最近中2の弟にずっと勉強教えてもらってるわー」
と言った時に隣にいた生徒のぎょっとした様子が忘れられない。
足りない、と思ったんだろう。
自分はそこまで見栄を捨てて必死にやってないと思わされたんだろう。
そこからそいつは勉強だけでなく、自分にできることを見つけてやるようになった。
朝誰よりも早くきて勉強する、ついでにクラスの皆の机を拭き掃除する、とかね。
まだ十代の子に対して、特に親子間では
ああしなさい、こうしなさい
と言いたくなる時もあるだろうけどそれで上手くいった例は寡聞にして知らない。
まだ4歳でとっても可愛いウチの子もいつか「うるせぇ、じじい‼」とか言うようになるのだろうか…。やだやだ…。
学校や塾ではある程度強制力に従うこと(フリでも)を学ぶことは社会に出た時に必要になってくるけど、家庭でそれを求めるのも違う気もする。
十代になった息子とは「自分はこうだったよ」「こんなことしたよ」っていう話を問わず語りでできる位の関係を築いていたいなと思う。
「中学生の時小諸から善光寺まで歩いたことあるんだよ」とか「高校の文化祭で4泊5日で学校に泊まって仕事したんだよ」とか。
彼らが何に価値を見出すかなんて分からないのだから、特別なものでなくても、自分にとっての「当たり前」の極致である自分の経験であっても、価値観を構築する機会を多く持たせたいなと。
それで何か感じることがあれば「あ、俺の人生にも意味があったのかも」って思えるような気がして。
だから世のお父さん、家庭でもたくさん話をしましょう♪
~今日の一曲~
「今も遠くで聞こえるあの時のあの曲がさ 遠くで近くですぐ傍で、叫んでいる」
神聖かまってちゃん「ロックンロールは鳴り止まないっ」