教えるということ。


ひとりで塾をやっていると一番恐いのは私の体調不良により塾をお休みしなければならなくなることです。

すでに一回胃腸炎でお休みをとらせていただきその分は振替という対応をさせていただいたのですが、これがインフルエンザやコロナ、そしてなんらかの原因で入院となったら…と考えると恐ろしくてなりません。

自宅でもよくそんな話になるのですが、私の実家で両親と同居しているため私の父がそういう時によく口を挟んできます。

「いざとなったらAさん(妻)が教えればいいやな」

と。

まぁ、何も考えていない発言なのでその場は水に流しますが、短気な私は不機嫌になります。

教えるということ、そしてその対価として料金を頂くこと、それがどういうことかというのは非常に伝わりにくく、未だ塾というものの価値は低く見積もられがちです。

この仕事を始めたての頃、母の友人から「京大まで出ておいて塾の仕事なんてもったいない。お母さんのためにも他の仕事を考えた方がいいんじゃない?」など言われたことがありますが、正直に言って巨大なお世話です。

この仕事がいかにエキサイティングなものであるかを塾人以外は知らない。

父も、その母の友人も、そして世の中の多くの人も、

学校の勉強を教えるなんて誰にでもできる

と思っているフシがありますが、おそらくそれは「教える」ではありません。

教科書やテキストに書いてあることを読み上げる、確かにそれなら誰にでもできますがそれは単なる自己満足です。

「教える」とは、

時に凄い角度から投げつけられる質問にも対応できるよう理解を深め、

目の前の生徒の理解力や語彙レベルに合わせた説明をし(集団ならば一様ではないのは当然)、

惹きつける工夫をしながらも、

生徒がこちらを侮ることのないよう視線(もしくはその他の手段)で教室を制圧しなければならず、

当たり前にテストの点数という結果が求められる、

もはや職人芸です。

集団授業をしていた時代の私程度ですらこう思うのですから、世の中の有名な予備校講師や異常なレベルの個人塾の先生の人知れない努力はいかほどか。

確かに教科書を読み上げる位しかしない講師もいます。

生徒のレベルに合わせることができず同じ説明を繰り返すだけの講師もいます。

それどころか唖然とするような間違った知識を平気で生徒に伝えてしまっている講師も実際に見てきました。

私だってもちろんまだまだですが、ここに述べたような矜持は持っていたいと思うのです。

…とここまで述べて気づいたのですが、私の父は今年81歳。

小学生、中学生という時代を戦後の貧しい環境で育ち大学にも進学していませんし、そもそも学習塾というものがその頃まだ存在していなかったはず。

そりゃあ考え方は隔たるかぁと納得したのでした。


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